昭和52年01月10日 月次祭



 信心を頂いておかげを受けると言う事は、もうそれこそ様々でございます。けども段々教えを頂いておりますと、おかげももちろん頂かなければなりませんけれども、こりゃいよいよ信心を頂かなければならないなと言う事が分かってまいります。信心を頂くと言う所から、信心の本当の喜びと言うのは、頂けることは勿論そうですね。おかげ頂いとったんではおかげの喜びだけ。信心を頂いたら信心の喜び。その喜びがあの世までも持って行ける、この世にも残しておけるいうものです。
 ですからいよいよ眼目は信心を頂く喜びが、頂かなければなりません。それは1回お参りをして来ただけでおかげを受けるだの。またはおかげの泉ここから毎月ご本が出ております。あれだけを読んでもう本当に奇跡的なおかげを受けておる人もあります。もう遠隔地の方なんかは仕方がありませんからね。今日も東京から手紙が参りましたが、もう本当にもうそれこそ本当ん事があるだろうかと言う様なおかげを頂いております。
 おかげの泉をただ繰り返し繰り返し、一月間の内に、私があのおかげに泉の扉に、少なくとも10回は読んで下さいと書いとる。けどもなかなか10回も読む人が少ない。けれども遠隔地の人は、お参りが出来ないもんですから、もうあのうベットに横たわっている人なんかは、もうあれをしきりに読めば読むほど、有り難いものが頂けれる。それがおかげを頂くと言うおかげ、おかげを頂いて退院のおかげを頂いたから、お礼参拝がしたいと言う、お礼の手紙が参っております。
 福岡のこれは稲垣さんのお導きで、これはもう大変難儀な人間関係の問題で、難儀もうそれこそノイローゼにならんばっかりのような状態の中に、稲垣さんのお導きを頂いてお参りをして来たけれども、なかなかお参りが出来ませんから、おかげの泉を沢山買ってきましてね、このおかげの泉をもう頼りに、もう段々一生懸命お家で大祓心行なさったり、そしてねそうそういろいろとねお知らせを頂く、本当にあのうまぁ有り難い事だなぁと、いわゆるおかげの泉だけでもそんなにおかげを頂く。
 年末あのう丁度あれはキリスト様のお祭りがございますね、25日。あのときゃ主人から初めてもう大変なの高価な、ダイヤの何か指輪かなんかを頂かれた。今まで且てない暮れにはダイヤの方が粒が良かったというて300万円現金を持ってくれたという。今までもう決して無かった事です。勿論第一夫婦間ないろんな問題があったんですから、そう言う事もあろう筈もなかったんですけれども、結局奥さんが変わって行かれる訳です。と言う様にですね。これはまぁおかげの泉を読んだだけで、お話を聞くだけで。
 まぁだから久留米の共励会なんかでは、大変皆さんの良い話があるからと言うので、まぁせめてここまで来れんでも、久留米まではと言うので、まぁ月に1回か2回ぐらいまぁ見えるそうでですけれども、もうそれでならおかげだけを受けておられると言う事です。そりゃもう不思議な不思議な働きなんです。もう最近近所の方達が言われるんだそうですけれども、奥さんこの頃あぁたの顔色が変わりましたよっちゅてから。
 それで自分も自分ながら鏡を見せて頂いて、こう言う風な心の状態に変わっていけれると言う事がもう有り難いと、せつにここに日参りにお参りされる訳でも何でもない。まぁだもっともっと簡単なんのがありますよ。ここにあのう大変な苦しむ患者さんがある。それをあのう看護婦をなさっておられる、この戎浦さんの奥さんが、そのあまりに苦しまれるのでお願いをなさった。本人は願うてもろうとる事も知らないけれど、それでもおかげを頂いて助かってお礼に参拝して見えました。
 これなんかはもう昨日前あたり寒修行に参って来ておられますが、( ? )さんそのうお医者さんがね、もう大体そう言う筈はないと言いなさるそうでした。そればってあんたぁおかげ頂いてからどんな話よんなかじゃんの言おうごたる感じです。お医者さんの方がそげな筈はないといいなさった。そりゃ現代の医学ではそう言う筈はないでしょうけれども、結局宗教が医学以上の医学であることを、やはり認めざるを得ないわけです。そういう例えばならおかげはまぁ様々です。
 今合楽でなら現れておる一つの奇跡的なおかげと言うのは、みんなあのうまぁたまがる様なおかげを頂いておりますけれども、そのうおかげを頂いただけではね、尽きぬおかげ限りないおかげを頂くわけにはまいりません。とてもひとつ限りないおかげ、大体信心を頂いておりますとね、金光様のご信心を頂いて合楽に御縁を頂いて、10年になり20年になると言う方達がです。さあ熱心な信心が出来なくてもです。確かに日勝り月勝りのおかげは頂いておる。
 年勝りのおかげを頂いておると言う事でございます。これはもうなんとはなしにおかげを受ける信心を頂いておると。自分だけではないいうならば先祖の御霊様までが、一緒に助かっておいでられておる。こりゃもう本当に有り難い事です。だから日勝り月勝り年勝りのおかげを頂くと言うぐらいならばです。そぉう熱心に信心を分かろうとしなくても、ただおかげ参りでも日勝り月勝りね、あなた方そういう御信心をなさっておられる限り、言うならば年勝りのおげになって。
 10年なら10年振り返ってみて。ようぉおかげ頂いたもんだなぁというおかげが必ず見えてきます。けれどもそれが代勝りのおかげと言う事になると、そんな簡単にはいかんのです。そこでやはり代勝りのおかげを頂く事の為の信心んを頂くであり、その信心の為の修行であらなければならないと言う事であります。だから金光様の御信心をさぁ信心の修行というのが、火の行をせんならん水の行をせんならんね、もうそれこそとても人間普通の人間では出来そうにもない様な修行を求められると言うならば出来ません。
 けれどもやろうと思えば、本気でやろうと思えば誰でも出来る様な、しかも段々有り難うなってくる。段々楽しゅうなって来るような修行が頂けるのです。そういう修行を一つ身に付けていきたいと思います。きのう一昨日の朝の御理解に、私はもう不思議で不思議でたまらん事がある。皆んなの広大のおかげを頂きたいと思う。限りないおかげを頂きたいと思う。それになら広大なおかげの頂けれる様な、広大な心を頂こうとは努めない。限りないおかげを頂きたいと言いながら、限りない信心を続けない。
 これでは行動と言う事が合わんのです。そこで限りないおかげを頂くと言う事はもちろん、日勝り月勝り年勝りのおかげだけではなくて、限りないいうならあの世のいわば私共が魂の世界に入ってからも、限りなく助かっていかれる道と言うか手立てというか、その足掛というものを作っておかなければならない。それにはいうなら信心を頂こう、しかもそれは限りなくと言う事になってくるのです。その限りない信心を続けさしてもらうと言うそこにです。
 いうならいつも教祖様が仰るよりも、この方の道の信心修業はね、一生が修行だと。学者が眼鏡をかけて本を読む様なものであると仰せられておるように。信心させて頂く者はそのそれこそ一生が修行なのだけれども、それは学者が眼鏡をかけて本を読む様なもので、いよいよ学問が身に付いて来る学徳が身に付いて来るとが、楽しゅうて堪えんひと時でも本を離すわけには行けない、程しの信心にならなければならないと言う事。信心が片時も忘れられない。
 信心がいよいよ有り難うなってくる、と言う事は修行がいよいよ有り難うなってくると言うのでなからなければなりません。そげなとてもそりゃもうでけんそげな事は出けんと、もう初から言いうなら仕方がない。まぁそれでも日勝り月勝り代勝りのおかげならいいですよ皆さん、合楽理念を頂いてまぁ時々おまいりしなさりゃそれでいいです。皆さん本当にそういうおかげを頂いているのです。日勝り月勝り年勝りのね、この寒修行がこの5日から始められております。
 ここ一杯の方がそれこそ熱気を帯びたその御祈念修行をなさいます。普通は出来んでもせめて寒修行の間だけでもというて、まぁ遠方からもお参りがあっております。ちょうど寒修行の始まった朝でしたが、御結界で奉仕なさっておられます久富正義先生が、お届けををさして頂かれるのに、長年信心さして頂いとりましたけれども、朝参りが一年間続いたのは、まぁ今までの初めてのこと丁度この12月5日からですね。
 いわゆる去年の今朝から朝参りを始めさせて頂いて、おかげで一日も欠勤する事なしに日参を続けさして頂いたと言う事は、真に有り難い事だと。これからはもうこの信心がどこまで続けて行かれるやら分からない程しに、もう久富先生の信心にはそういう信心がもう血に肉になってきた。切ろうというてももう切り離す事が出来なくなってくる程しに有り難いものになってきておる、楽しいものに有り難いものに成ってきておる。
 例えば久留米の佐田さんなんかでもそうです、こちらに教会が出来て初めての寒修行の時に、一家をあげてひと月間いっちょ頑張ろうじゃないかと言うて、一家中でお参りされた。それ以来もうまる9年間ね続いておる。朝参りが。しかも家族をあげてでありますところにね、本当に日勝り月勝り代勝りのおかげは勿論だけれども、佐田さんこれならば代勝りのおかげになろうねと言う所まで今行っておられます。
 昨日もまぁ余談でしたけれども、桜井先生の奥さんが今度新春パーテイでいろいろ、いろんな本当に神乍らなそのうくじ引きを、中に御教え付きでしたからね、もう素晴らしい御教えを頂いておられます。素晴らしい御教えと言うが、もう有頂天になる様なじゃなくて、もう本当に心が引き締まる様な、いや今年はどうでもここをと言う様な信心の目指しと言うか、目指してのものであります。おかげをあのう頂きまして今日ほど去年の、この寒修行の時に、親先生があのう石鹸を牛乳石鹸の赤箱の牛乳石鹸を使われる。
 それをその石鹸の使い方を私は絶対踏んだからというて、タオルで拭いたりせん勿体無いから、そんかわり石鹸ばこの半分でよかです。皆んな蓋がいるけど私は蓋なら蓋だけでいいわけです。なぜって、中に入れなから、うえにこうやってさらっと洗うけ、さらっと洗うけといっちゃわかるでしょ。そげな話。ですから明くる日はもうさらさらと言う様に気持ち良う使える訳です。だからそこにきの奥さんはもう他のこの真似は出来んから、せめてこのくらいまでは真似させて頂こうと。
 と言うて真似をさして頂いてまる1年になりますが、おかげを頂いて牛乳の赤箱の石鹸が、もう尽きることなく頂いておるのに、もう恐れ入ってしもうとりますと言うお届けがありました。不思議な事ですね。私の皆さんが真似だけでもなさるなら、本当のおかげを受けられるです。そこで桜井先生一つなら、私のお金の使い方を一つ真似しなさるといいですねと言うた事でした。私のお金の使い方を真似しなさいと、私ねならお金だけには絶対不自由しよらんから。
 そこでならお金の使い方、それこそ甘木の親先生じゃないですけれども、1円のものを使うでもそれこそ100円の金を使うごたる思いで、そりゃ自分の事の場合は使うと仰る。神様の場合に100円のお金を使う時には、それこそ自分の1円のお金を使うくらいな気持ちもないくらいに、お金を使われると言う様な使い方をなさっておられるのでした。自分で得手勝手に使うておいて足らんごと成ってから、神様お願いします。ですから本当に石鹸だけではないと言う事。
 本気でなら親先生のお金の使い方を皆さんが研究なさるならばです、必ずお金に不自由せんで済む様なおかげが受けられる、いうなら金の徳が身に付いて参ります。段々段々それがいよいよ私の言うならば信心に迫って見えると言うか、私が大体お金に不自由しないと言うのは、私が私のお金と思っていないからです。どれだけの億万のお金を例えばここに持って居りましても、それはみんな神様あなたのお金ですから、ですからそれこそ自分の事に使う時にゃ割って使うよりは、もう使うと言うより使わないです私は。
 そしてならこと神様の時にゃ、なら総うよ持って行ったちゃよかと言う心で、何時もおるから金には不自由しない。だから難しい。けれどもねやはり少こうしづつでも真似しておいでられると、段々おかげが頂かれるようになるんです。言うならばおかげの世界から、段々代勝りのおかげを頂かせて頂く事のための信心に成って参ります。信心が見やすいものだけれども氏子から難しゅうすると仰せられるが、信心がみやすうなる言うならば、修行が有り難うなると言う所までが私は信心辛抱だと思う。
 なら久富先生の、久富正義先生の場合でも、久留米の佐田さん達一家の場合であっても、それはやはり朝参りて何てん言うのが、金をかけても出来るこっちゃないと思うとんなさったに違いない。だから一家をあげてひとつこの修業期間だけはお参りをするぞという、あの時分は確かに50日間でした。その50日間をお参りをさせて頂いて、今は一ヶ月間ですね。50日間お参りさして頂いておる間に、やめようにやめられなって行く来たということです。
 今やめろと言われてももうやめられないと言う程しに、信心修業が自分のもんに成りきっておると言うことです。そしてなら9年間の例えば佐田さんのお宅におかげを受けておれるおかげの状態がです、日勝り月勝り年勝りのおかげになっておるという事実がです。しかもこれなら代勝りのおかげになるだろうと、思われるほどしになら子供たちの信心にも身がいってくると言う事です。正義先生が1年間の寒修行をから続けてお参りが出来る様になって、1年間の間にどういうおかげを受けておるか。
 それこそこれが真善美に輝くおかげであろうかと言う様な、おかげの世界に今住んでおる、そしてそういうお礼のお祭りをしたその翌日から、日勝り月勝り年勝りのおかげを頂いて参りましたからは、これからはです、この信心を土台にしてこれからは、代勝りのおかげの頂けれる信心に、ならせて頂こうと願いを立てております。代勝りと言うのはね、信心のお徳というものは、あの世に持って行けれだけではなくて、この世にも残して於けるというもの。だから代勝りなんです。
 そこから信心の本当の喜びが出来て来るようになる。だから皆さんが例えば寒修行にお参りしだしたならば、こりゃもう1年間もまだすうっと、参らんなんごとなるならどんこん出来んけん。まぁ参りめと言うならそれまでですけれどね。いっぺんとにかく、まぁお参りの出来ない状態にあっても、ね、一日ぐらいどうとかならん筈ないです。朝の言うならばせっかくならば、なら親先生のご祈念が4時にゃここに出られるから、4時のご祈念も一遍いただいてみろう。
 いや3時半に出るとを親先生がそこんにき御祈念をなさるとを、こっから聞くことが出来る。一遍でも合楽の信心の初めから最後までと言った様なね、こう言う風にして合楽の信心が始まるんだと言うところから、一日一つ願うにでもねそういう雰囲気に触れてみる。そうしてそこから確かな有り難いものが頂けたらです。2日参ってみる3日参ってみると言う事、そしてそれが至難なものではない事にだんだん出来て来るなら、こんなに有り難い事はない。
 ですから私は合楽の信者信奉者としては、合楽をあげて今寒修行に取り組んでおります。しかも焦点は言うならば10年祭と言う記念年にあたるのですから。先ほど竹内教師が申しておりました様に、合楽にとっては大変大事なお歳柄に当たる。ですからその大事なお歳柄を、なら私共めいめいとしてはどの様に頂くかと言う事を、一つ焦点にしてこの寒修行にかけておる。と言う様な事もまぁ工夫だと思います。いやぁ一月参らなくても一日でもよい、そういう雰囲気に触れてみると言う事。
 そこから信心を頂くと言う事がこう言うものだ、有り難いものだ正しいものだと言う風に育って来る。こりゃぁねもう日勝り月勝り年勝りのおかげを頂くだけではなくて、代勝りのおかげ、あの世にまでも持って行けれ、この世にも残しておけると言う程しの事ですから、私共が一生一代を懸けてでもどうでも成し遂げたい、またはそこまではおかげを頂いておきたいというのが信心なんです。だからおかげを受けると言う事はさっきも申します様に、様々なおかげの現れ方はあります。
 その信心を進めていく上におきましても、やはり楽しい事やらいうならば嬉しい事有り難い事ばっかりではない、これほど信心するのにどうしてと言う様な事もないではありません。そこに信心の稽古がある。そこをこりゃまぁだ信心が足りんのだと言うたり思うたりして、そこから一段信心を進めていく。この頃新春パーテーの時に宮崎からいく連れも参って見える。そのなかの1連れの方達が朝出る時に電話で、今晩のパーテーにおかげを頂きたいからちうお届けがあった。
 それで道が3通りあるここまで来るのに宮崎から、だからどの道をどうやって行ったらよかろうかと言ったことでしたから、神様からこの道が良かろうと言う事であった、だからその道をもう神様から頂いたからと言うので、それこそ一生懸命やって来よったら、もうやんがてこちらにつく頃の時間になった時に、そこが交通止めになって通られんようになったちゅう。そぉれからまた大回りを只今大回りをしてから着きますから、時間に遅れますかも知れませんけれどもという電話が掛かって来た。
 それからお繰り合わせをまた願いますと言うて着かれたのが、ちょうどパ-テーが終わって皆んなが立ち上がったところへやっと参って来た。はぁ残念もう宮崎からまでもああやってそのあれにあえなかったんですからね。私がそのちょうど4時下がろうとする時に、電話が掛かって来たから神様にお願いしてました。神様から言うならばこの道を通って来いよと頂いてとるんだから、だぁあっとスムーズなかと思うとった。
 いつでもスムーズなおかげが頂ける。にもかかわらず今度は反対に、今度は大回りをせんならん様な事になって来た。私がその事を神様にお願いさしてもらいよりましたらね、あの熊本にあのレンコンにからしを詰めた辛子レンコンというのがあります。あれをこう薄切りにしたとこを頂くんです。皆んなが信心しておかげを頂いたおかげを頂いたと言よるけれども、日勝り月勝りのおかげを頂いたといっておるけれども。
 信心もようなら出来もせんのにおかげを頂いておるのであるから、神様が言うならばレンコン食うて下さりよる訳です。レンコン食うて下さると言う意味は分かるでしょ。神様の方がその言うならば一生懸命の願いに吸い出して下さる訳。そしてまだやれるだけのものはないけれども、神様はレンコン食うて下さっておかげを頂いておると言うのが、まぁ私共が頂いておるおかげではないでしょうか。
 ところがそのレンコン食うて下さって、穴が詰まっとるけ向こうさきが見えん、神様が見なさらん訳むしろ涙の出るごたる。そういうところをです私共がね、本当にその涙を神様がこの様にまでしてお鍛えを下さるんだと。有り難涙がこぼれる様な信心をさせて頂くところから、すきぃっとした次のおかげになってくるんです。信心の課程にはね、はぁまた売れた又売れたというとこは絶対ないですよ。もうまた売れたまた売れたと言う事は必ず金玉がやどがえる。
 ほんなこってすよ人間ちゃそげなもんです。ですから信心を頂くと言う事になるとです。信心を下さいとさろうとする働きが生まれて来る。自分の思う様になることだけがおかげではなくて、自分の思う様ではない反対です。しかもご信用を頂いたからまでしておるのに、どうした事じゃろうかと言うな事ですけれども。そのどうした事じゃろうかがです、この様にして、神様が信心を頂かせて下さるんだと分かって来るから、その事が有り難うなってくる。
 そういう信心が続けられていく様なおかげを頂かなけりゃなりません。言うならば今日は信心のおかげのまぁ様々様相ですね、けれども段々おかげを頂いて神様の働きが段々分かって参りました。神様がもう本当に絶対神愛一つ心を持って、私共に臨んで下さるんだと言う事が分かってくる。その神様の心をいよいよ広く深く分からして頂こうと願う心が限りないおかげにつながって来る事になります。
   どうぞ。